2008年 11月 04日
港を見ていた団地 |
安川さんの写真集『倉庫』を眺めていてふと北仲、海岸通辺りは今どうなっているのだろうかと気になった。そういえばこっちに帰って来て以来(こればっかりだな)桜木町駅から目と鼻の先であるにも係らずその辺りには意外にも足を踏み入れていないのだった。去年の春に信楽から来た友人にせがまれて横浜見物と決め込んだときも、新港埠頭の再開発で汽車道がずっと歩いて行けるようになっていたので赤レンガ倉庫まで近道をして肝心な場所を迂回してしまったのだ。唯一そのまま保存された可愛らしい小さなトラス鉄橋を三つ渡って、めったに足を踏み入れることの出来なかったまさに出島のような新港地区が今どうなっているのか愉しみだったが、更地になって整備されただだっ広いだけの場所に新品のビルが所々建っている寒々しさでがっかりだった。ただ赤レンガ倉庫だけがそのままの場所に二棟ぽつんと建っているのがかえって取ってつけたようで、線路が敷かれていた前庭もイギリス庭園風に整備され、建物は外見を残しアミューズメント・モールに改築されてその中の、ガラス張りの明るいカフェの椅子にゆったり腰をおろしてもなんだか居心地の悪いみょうちくりんな気分にさせられた。
そのときはまだ鉄筋コンクリート製の帝蚕倉庫H棟(上から三つ目の写真)が健在で、H棟は桜木町駅側から見える側の白い壁に張り付いた蔦が季節ごとに緑が生い茂り紅葉し落葉したりしながら姿を変えるのをいつも愉しみにしていたのだが、初めて汽車道から運河越しに観てみると海側に据え付けられた二連のクレーンが正面からちゃんと見えるのが嬉しかった。『倉庫』に載っている煉瓦造りの古い方の帝蚕倉庫群は汽車道から観ると丁度そのH棟の裏手にあたり、陰に隠れてほとんど見えない。
そのときはそれよりもH棟の隣にひっそりと立つ古いアパート群に目が行った。逆に陸地側を歩くと今は横浜市の庁舎になっているが昔の生糸検査所だったという公共施設の建物の裏に隠れてほとんど目立たなかったので、そんなところに団地のようなものがあったというのがまず驚きだった。これはいつか訪ねてみなければと思っていた。
註:上の写真二つは去年の春撮影。
今桜木町駅の海側に立ってみるとちょっと前、そう、ほんの僅か前のように思えるのだけれど、みなとみらいからの太い道路と橋が弁天橋よりも海側に通ってしまう前の景色がもう思い出せなくなっている。生糸産業が盛んだった頃の名残だろうか、確か駅のこちら側には運河からの積み荷を扱うのであろう船舶専用の大型クレーンなどハードな施設がちりばめられていたような記憶があるのだが、今はすっきり整備されてしまったこの景色を却って観なければよかったと思うくらい淡い記憶はその瞬間バラバラと崩壊してしまった。帝蚕H号倉庫も今は解体されすっかり更地になっているので、蔦の絡まる白壁の移ろいを楽しんだのはどの場所からだったのか、それは意外にもみなとみらいが整備され始めてから目に付くようになったのではないか、などあれこれ思い起こそうとするのだがどうにもイメージ出来ないのが歯がゆい。
橋を渡って北仲地区へさしかかると視界はいっそう開けて古い煉瓦造りの帝蚕倉庫群は一棟を残してあとは瓦礫の工事現場と化している。おかげでその煉瓦倉庫の陰にひっそりと生き延びていた団地の建物が寒そうに肌を露にしているのが痛々しいほどだ。横浜市合同庁舎をぐるっと回って万国橋の方へ歩いて行くと、
団地の一
号棟の壁に「海岸通住宅公団ビル」のロゴが見える。その横壁に入り口があってそこから上が階段室になっているのだろうか、小さな回転窓を無数に並べた明り取りが上に向かってずらっと並んでいるのは壮観だ。古い団地というのは住んだこともないくせに何やら懐かしい気分にさせられるのは何故なんだろう。友達のうちに遊びに行くと団地住まいだったりして、ちょっぴり憧れたこともあったような気がする。僕のうちはほんとに幼児期の頃(教員アパート)を除いてずっと借家住まいだったが5人家族、その団地の間取りよりもずっと狭い家ばかりだった。
中庭に入るとほんとうにひっそりとしていて、どうやら一部の棟は住人が退去して廃屋になっているようだ。それをよいことに安心してあちこちカメラを向けて歩いていると、スタスタとお兄さんが近づいて来た。丁寧だがきっぱりとした口調で「関係者ですか?」と問われたので「違いますが、もう大分古い建物なので写真に撮って残しておきたいと思いまして」と答えると、「表に事務所がありますから一応断ってからの方がいいと思いますよ」と明らかにここいらをうろついてほしくないという意味の念を押して、そのまますーっと建物の影に去って行った。
お辞儀しながら「済みませんでした」と謝ってふと考えた
。気持ちは「愛情を傾け」て「観ること」に集中しているつもりが、野の草花を何気なく摘み取ってしまうように写真を撮るということに貪欲になり過ぎて、結局のところそこに住んでいる人々の気持ちを蹂躙しているだけなのではないのか。なにか素晴らしい衝動に突き動かされているというような名目で、傍目からみればただ欲望に目をぎらつかせているような輩に過ぎないかもしれない自分を思った。声をかけてくれたお兄さんの目は飽くまでニュートラルで、その言葉つきは港をじっと見続けていた団地のように飽くまで優しかった。
ところで貨物引き込み線のためのトラス鉄橋だが日活映画『俺は待ってるぜ』(1957)の冒頭にいきなり登場したりするのでおおっと声が出る。度々日活映画を引き合いに出すのは申し訳ないが、特に日活アクションものには横浜ロケが欠かせない。50年代60年代の横浜の姿、埠頭関係の港のシーンが頻繁に出てきて見逃せないのだ。
話を戻して映画の冒頭シーン。夜、今
丁度雨が上がったところだ。どうやら海を背にしているらしきバラック建てのぼろレストラン「REEF」(アナグラムすると「FREE」になるが・・・)、何故か線路端に店を構えている。そこへいきなり貨車を連ねた蒸気機関車が汽笛を上げて前を通過する。通過後そのレストランから男が現れ向かって右手方向に歩いてゆく。パッとカットが転換してカメラが男の向かう方向へ背中越しに捉えると目の前にどーんと小振りのトラス鉄橋が映るのだ。線路脇には歩道が別にしつらえてあり、歩道の脇にもさらに小さなトラス構造が建ち上がっている。別のシーン、冒頭と同じショットで今度は朝。またいきなり蒸気機関車が今度はゆっくりとバックで通過する。よく観るとC56というプレートが読めたりするのだがそれは今日の話ではない。通過後今度は女が店から出てくる。まったく同じように背中側からのショットに変わるとトラス橋が現れその向こうに印象的な塔のある建物が見える。今も建っている横浜税関だ。その位置関係から推測するとロケで使われたトラス鉄橋は残されている三つの内のものではなく、今は道路で拡張されてしまったが新港地区から山下町方面へ渡る方の橋だったようだ。ただ歩道脇のトラス構造だけは何故か今も残されている。
港にまつわる話で前に言いそびれたが、田舎のいとこが家事手伝い英会話取得という名目で叔母の居るロサンゼルスに渡航したことがある。おそらく1950年代後半のこと、映画とほぼ同じ時代だ。その頃すでに叔母たちは飛行機を使っていたが、いとこの場合旅費を格安に上げるということで貨客船での渡航となった。貨客船の場合、今考えるにどうやら発着は新港埠頭だったようで、僕らは新港地区の先端の岸壁まで歩いて送迎に行ったはずだ。一年ほどの長い渡米後出迎えに行ったとき、検疫を済ませて出て来たいとこは何故かジョニ黒ウィスキーの瓶を大量に抱えていた。お土産のつもりで大量に仕入れて来たらしいのだが、小賢しくも船内で知り合った人たち何人かに頼んでそれぞれに少しずつ手荷物として分散して税関越えをしたという話だった。下船直後の検疫さえ済ませればOKだということなのでそれを鵜呑みにした貧乏症で呑気でお人好しなるうちの家族は当然タクシー代をケチって(そういうときはタクシーを使うのが定石)、ご苦労にも皆それぞれ手提げ袋両手に下げつつ街の方に向かってぶらぶら歩いたのだ。ところが多分その海岸通団地のすぐ前の万国橋の辺りにあっただろう小さな交番の目に留まり(目立つのはあたりまえ)そのまま検問に引っかかった。税関には二重の関門が用意されていたのだ。その後いとこは入れ知恵されたとはいえ軽い密輸の罪に問われて横浜税関に連行され、初犯ということで無罪放免になる代わりに長時間に渡ってこってり絞られましたとさ、という情けない話を映画の横浜税関でふと思い出した。
通りから入って行ってすぐの1号2号棟は単身者専用だったらしく食堂や遊戯室などの建物が渡り廊下で繋がっている。老朽化が限界なのかすでに住民は退去してドアは堅く閉ざされている。すでに解体された帝蚕倉庫H棟側にある並んだ三棟は下駄履き式になっていて、個人商店やら小さな倉庫やらが入っていたようだ。そこもすでに廃屋。残りの棟にはまだ人が住んでいるが近いうちにどうやらすべて解体される予定で、そうなると今居る住民たちはいったいどうなるのだろうか。解体反対の立て札などもないところをみると円満解決の方向にあるのだろうか。
な意匠は横浜のカフェー風建築にもよく見られる形式で なにか流行という
か船室の窓をイメ−ジしたような横浜ならではのデザインだったかもしれない
(上)渡り廊下も同じ意匠 海風を室内に取り入れ
るという意味では細かい操作が可能だ
(右)無人の棟はとにかく厳重に封印されている
ずっと思っていたのはここがはたして港湾関係に従事していた人たち優先の住宅だったのか、それとも自由公募で当選すれば誰でも入れたのか。多分少なくとも幾らかは港湾関係の家族や独身者などが住んでいた(る)に違いない。もう少し気持ちに余裕があれば出会ったそのお兄さんに聞いてみたかったが、態度が急変することを恐れてやはり聞けなかった。今年の8月にこの団地で懐古イベントと写真展が開かれたそうで、機会を逸してしまったのは返す返すも残念だ。
by digitaris
| 2008-11-04 20:21
| 横浜散歩