2008年 10月 13日
横浜に遊郭があった |
ここだけ意識的に残されている。前は日本風の旅館だったのかそれとも壁に部分的に
残された意匠から想像してちょっと変わった趣向の折衷風の外観だったのか、空想は
限りがない。建物全体はともかくこの古びたモルタルの壁全体だけでもどういうデザ
インのものだったか、それさえもいまいちみえて来ないのがかえって面白いともいえ
る。すでに単独で立派なオブジェだ。
真金町永楽町界隈は不思議な場所だ。ある一角はラブホテルが林立し昼間から入り口のイルミネーションが忙しく点滅する。別の一角には高層マンション群がそびえ、そのすぐ脇には広大な空き地が転々と散らばる。南の方に下がって行くと新旧一般住宅やら文化住宅安アパートなどがひしめき合うこの辺りではあたりまえの静かな住宅地の姿。街の中を貫く、中央分離帯には街路樹さえ植えられている無意味に広く短い大通り。そこに黒い外車をドッカと停めておいて、道端で携帯に向かって何やら大声で喋っている白ずくめで強面の男。その側を所在無さげによたよたとアル中風のじいちゃんが、荷物満載のカートを引きずるホームレス風のおばちゃんふらふら、駐車場から若いカップル乳母車。
縦横三本ある大通りのうち街の中心を貫くような通りの、南西側のどんつきに金比羅神社がある。神社の隣に町内会館のようなものがあって、表札を見ると「寿東部」とある。寿町は全国にも知られたドヤ街だが近隣の中村町なども含めて大雑把に「寿地区」(間違い-註1)とされているようだ。「ドヤ」と言えば簡易宿泊所のことだがそれを言うなら今回歩き回っているJRより南西の地域はちょっと前まではすべてドヤ街だったろう。ネット・カフェだって深夜サウナだってカプセル・ホテルだってビジネス・ホテルだって「ドヤ」だ。
市街地は窓の格子のように区画整理されていると前にも言ったが、ここも同じように区画整理されているとはいえ他所とは雰囲気がちょっと違う。ここでちょっと地図を観てもらいたい。日本でも有数の遊郭跡を真上から見たもの、州崎パラダイス跡と名古屋中村遊郭跡だ。それぞれ少しずつズームアウトしたりしてみて欲しい。
多くの遊郭は独自の都市計画によって区画整理されたものが多いようだ。周りを堀川などで囲んだりそのエリアに通ずる道を細く数も最小限にしたりして出入りを困難にし、大門をもうけて基本的に出入りを一本化する。大門以外の進入路も斜めにしたりカーブをかけたりして外側から遊郭の中を見通したり出来ないようになっている。大門から町の中心部を貫く道は大店が並び十分に広い通りになっていて、大名行列だろうと余裕を持って通れただろう。
ル、と言っては失礼か。小粋な窓の欄干などポキッと折れそうだ。飛田の百
番の風格には逆立ちしても及ばない。そこがまたよしなのだが。夜はいかに。
戦後、売春禁止法などによって遊郭やその跡地に出来た赤線街などが寂れて市街地化が進み、住宅やマンションなどに建て替えられて一見他の場所とそれほど大差ないロケーションになっても、これらの地図で観れば分かるように大雑把にはランドマークとして残る。吉原や横浜の中華街などは北枕を嫌ったり風水の方角に従った(らしい)りして地域全体が斜に歪ませてあったりするのも地図で見ればよく分かる。
伊勢佐木町通りと直角に弥生町4丁目あたりから三吉橋まで貫く全長350mほどの横浜橋商店街。大阪でいえば(いわんでもいいが)天神橋筋商店街に対する中崎町商店街のようなものか。個人商店主体といっても、干物屋さんとか鰻屋さんとか専門店のバラエティーが豊富で侮れない。京都の錦市場とまではいかないが昔の公設市場が凍結されている感じ。このときは丁度近在の商店街合同の夏祭りだったようで大賑わい、神輿の前後は大混雑だった。
そのうえで真金町永楽町を見てみよう。すると南南西側に僅かにどんつきの角地が残っていたり不自然な中央分離帯のある大通りが通っていたりするのが分かると思う。横浜橋商店街を歩けば分かるが、真金町側には人一人がやっと通れるような路地しか道が通っていない。そのアーケードの中程の、商店街と丁度背中合わせに金刀比羅神社が位置するのだが、鳥居のすぐ前中央大通りに面した角地にあるタバコ屋の建物は、戸袋に葵の紋の浮き彫りが施されていたりして格式を感じさせたりするのも面白い(親爺さん仁王立ちで撮影出来ず)。寿町中村町はよく歩いたがこともあろうにこんな場所がエアポケットのように存在したなんて、不覚だった。
横浜橋商店街南方から真金町へ通じる小路
。真金町方面に出るにはこんな細い小路が
何本かあるだけ。
好みの永楽湯。現役な筈だが多分日曜で閉まっていたのだろう。残念。
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註1)気になって調べてみたところ、寿町と寿東部は直接の関連がないようです。「寿地区」というのは僕の方
で勝手に決めつけてしまったようで間違いでした。すみません、気をつけなくては。寿町は中区の連合町
内会の「埋地地区」という括りの中に含まれていて、江戸時代初期の吉田勘兵衛の干拓事業によって埋め
立てられた土地だそうです。町名がふるっていて「不老」「長者」「翁」「万代」「寿」「千歳」と観
世流の能狂言から名前を採ったそうです。なるほどなにか渋くさい町名ばかりと思っていたらそういうこ
とだったのか。「寿東部」は南区の連合町内会の一つ。しかし寿町より西側にあって「寿東部」とは紛ら
わしい。
ベランダの繊細な細工が飛び抜けて美しい。
変わってはいるが最近建てたものと一瞬思った。が、よく観るとどうやらカフェー風看板建築に違いない。カフェー建築の意匠はアールデコ風味というのが一般的だけれど、これは何となくダダの匂いがする。横浜らしい職人気質ならではなのか。しかし玄関周りにしてもトータルに気が配られている。
ダダのそろばん塾の隣はちょいと小粋な三味線のお師匠さん、というわけではないけれど、隣同士でこのコントラストには思わず笑ってしまう。
左もちょっぴりダダ味。同じ工務店だったりして。
大分変えられているが、元はなかなか洒落た建物だったようだ。
by digitaris
| 2008-10-13 02:04
| 横浜散歩