2008年 06月 08日
おかしい |
「朽ちて行かないものを不潔呼ばわりするのはおかしいことだろうか」
「そうさね、おかしかね」
さっと一拭きで色も風合いもほとんど新品のように再生されてしまえば、
それを不潔だなんて「ちょいとおかしいんじゃない?」という気にもなるだろ?
「おかしい」というのは「可笑しい」のはもちろんだが「岡椎」や「謳歌強い」でもいいのだろうか。谷間の水はけのわるい土地に椎の木は似合わないとすると「岡椎」に何の異論もないし、謳歌するのを強いるのは自然の要求であるから文句を言えるわけもない。人はもちろん青春などを謳歌したりするけれどそのおかげで謳歌出来ない青春もきっと半分くらいはあるに違いない。誰でも一生の間謳歌し続けられるわけでもないし謳歌を個人で独占出来るわけでもないから、人それぞれ交代しながらまんべんなく謳歌し合っているのかもしれないのだが、たった今謳歌している最中にそのおかげで謳歌出来ない者が生まれてしまうと考えるとどうも具合が悪い。つまり人間に謳歌を強いることはそうそう単純には出来ないということか。人というものつくづく自然の摂理に抗う生き物だことよ。
ところで「可笑しい」のだからまず笑いがつきものであるのは間違いない。おかしいと思われるということはきっといつのころからか笑いという憑物が取り憑いてしまったからなんでしょ、いいじゃないの、放っといとくれよ。いったん憑いてくれたからにはもう離しゃしませんのですからに。
「笑い」というのにもいろいろあるけれど、「冷笑」や「失笑」でなくそりゃあ屈託のない笑いがいいに決まっているしありがたい。例えば人前で恥をかいたりするような場面で、そこで起きる笑いがあるとすればほとんどが「冷笑」や「失笑」のたぐいだろう。特に今は「空気を読めるか読めないか」とかいうわけの分からない判断で人格を区別するのに躍起になっているところをみると、たんなる「冷笑」や「失笑」でも済まないような「空気」。窮屈な世の中になったもんだ。
恥をかくということはそんなに忌むべき行為なのだろうか。社会常識的に適切でない行為言動を人前にさらしてしまうのは、社会的にみれば緊張感を欠くということになるのかもしれない。けれど公共の場で緊張感をちょっとばかし欠いている人というのは、その分だけ外界に対して許容量が豊富で気持ちの柔らかい人格である証拠だともいえる。もしそういう人格が世の中にもっと多ければ人前での恥かき行為に対する笑いは「冷笑」や「失笑」より「微笑ましさ」の方になびいてもいい筈。つまり公共の場に同感共感が足りない、他人に対して余裕がないというのが現状なのだろう。傍若無人と呼ばれる「おばちゃん」のあの態度も、よく考えれば人に対する愛情が他人に対する思いやりに変わり、それが「おせっかい」に発展して強制力まで獲得した結果だ。ほどほどというところに留まらず極端に走ってしまう世の中とあっさり同調してしまうのは寂しいが、他人に対して余裕のない端の者のやっかみ(つまり「おばちゃん差別」)というのも極端を助長しているに違いない。
表現行為というものは恥かき行為と同等だ。というより積極的に恥をかく行為と言った方がより正しいし、人前で恥をかくつもりがなければやらない方がいいような仕事だ。カッコつけてる場合じゃないんだよ、まあそれもある意味恥かき行為ではあるけれど。
恥をさらすわけだから受け取る側の愉しみの中には「おかしい」も含まれる。どんなに人を引きつける素晴らしい表現があったとしても、「ほう」や「すごいね」の他に「可笑しい」や「岡椎」や「謳歌強い」もあれば、「冷笑」や「失笑」も含まれている筈だ。「盲信」やただの「もちあげ」よりも、そんな複雑な感情が入り交じった賞賛の方を喜ばない表現者はもぐりだ。いやいや「冷笑」や「失笑」だけだってかまわない、何も言われないよりはね。表現する者にとってなにはなくとも沈黙されることほど虚しいものはないのだ。だいいちばつがわるいじゃないか。
「けどダンナ、虚しくたってやりますぜ」
「おやお前さん、大きく出たもんだ」
「そりゃあ、いったん恥をさらすと決めたからニャロメ!」
by digitaris
| 2008-06-08 20:34
| 反復ラブ