2007年 09月 19日
「むいな日」たちと(其の一) |
気がつけば「むいな日」のイベントから早半月以上経ってしまいました。いろんな意味で濃い内容だった準備期間からすれば僕にとってめくるめく過ぎてしまったあの一日。係った人たちは今頃既に次のことに切り替えて動き始めている筈、なのに僕ときたら早いこと済ませてしまわなければいけない最後の後始末にも手をつけられず、容赦なく秋めいて行く季節をぼーっと眺めているだけ。こりゃいかん、しょうもないことでもいいから何か頭を働かさんと、ということで安易な企画を立ち上げてみたのですが。
さて、「むい」というキーワードで出演をお願いした人たちですが、いったいどういう人たちなのかこの際自分の中で整理しておかなければと思い立ち、人物紹介というよりどのように知り合ったか、あるいはどういう関わりで今に至るのか、というふうに自分の記憶をざっと洗い出してみようというのが狙いです。とどのつまり「むい」とはいったいなんだったのか、行き着くところそういういうことにほんとになるのかな。
・・・・・・・・・・***・・・・・・・・・・
<ヘンコ入門>
出演順から言ってまずのむら君。これ、現在本名ではないのだが「のむら君」が慣れてしまっていて僕はどうしても本名で呼ぶことが出来ないのよ。ゆるして〜。でも僕だけかと思っていたら皆そうらしいので一安心。9/1も、◯◯◯◯さんと呼ぶ人は皆無だった。ということで、のむら君はとてものむら君な人なのだ。おしまい。
いかんいかん、のっけからこんな話でお茶を濁していたらあきまへんブルブル。・・・ああ怖い奴っちゃ!
横浜でやっていたアンクルムーニーというバンドが解散になったのが1977年頃。なんとないいきさつがあってそれから僕は東京都下三鷹近辺に住むこととなった。生きて行くに自分なりの最低限のレベルが保てればそれ以上働かない、という生き方を始めたのはその頃から。言い換えればぐうたらでだから万年金欠だったということ。そんなくせその頃から関西方面にしげく通うようになったのだから始末が悪い。もちろん今もあると思うが大垣行き鈍行夜行列車、その上キセル乗車(これが可能だということを発見したのが最大のコペルニクス的転換点だった〜おかげで当時流行のヒッチハイクというのをしたことがない)。
ところで当時の「国鉄」はとっくの昔になくなったのでもう時効でしょうな、JRさん。
アンクルムーニーが大阪で何度かライブをしたおかげで何人か知り合いが出来て、大阪の友人を頼って何日か居候というのが決まりだった。この頃から居候癖というのも始まったのだけれど、元々アンクルムーニーの頃にはメンバーと共同生活をしていて借りている家もまあまあ広かったので、関西から横浜にツアーにやって来るミュージシャンたちの宿泊場所ともなっていた。その上僕の場合は実家からして狭い借家住まいのくせに父親の教え子の下宿代わりとか、母親方の田舎からいとこなどが転がり込んで来たりとしょっちゅう居候がゴロゴロしていたので、そういうことは特別迷惑なことだと思っていなかったのも災いしている。とんでもない奴が来たなと思っただろうな。エイメン。
と、ようやく大阪まではやって来たのだけれど、のむら君とはなかなか出会えないのだった。つづく。
さて、「むい」というキーワードで出演をお願いした人たちですが、いったいどういう人たちなのかこの際自分の中で整理しておかなければと思い立ち、人物紹介というよりどのように知り合ったか、あるいはどういう関わりで今に至るのか、というふうに自分の記憶をざっと洗い出してみようというのが狙いです。とどのつまり「むい」とはいったいなんだったのか、行き着くところそういういうことにほんとになるのかな。
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<ヘンコ入門>
出演順から言ってまずのむら君。これ、現在本名ではないのだが「のむら君」が慣れてしまっていて僕はどうしても本名で呼ぶことが出来ないのよ。ゆるして〜。でも僕だけかと思っていたら皆そうらしいので一安心。9/1も、◯◯◯◯さんと呼ぶ人は皆無だった。ということで、のむら君はとてものむら君な人なのだ。おしまい。
いかんいかん、のっけからこんな話でお茶を濁していたらあきまへんブルブル。・・・ああ怖い奴っちゃ!
横浜でやっていたアンクルムーニーというバンドが解散になったのが1977年頃。なんとないいきさつがあってそれから僕は東京都下三鷹近辺に住むこととなった。生きて行くに自分なりの最低限のレベルが保てればそれ以上働かない、という生き方を始めたのはその頃から。言い換えればぐうたらでだから万年金欠だったということ。そんなくせその頃から関西方面にしげく通うようになったのだから始末が悪い。もちろん今もあると思うが大垣行き鈍行夜行列車、その上キセル乗車(これが可能だということを発見したのが最大のコペルニクス的転換点だった〜おかげで当時流行のヒッチハイクというのをしたことがない)。
ところで当時の「国鉄」はとっくの昔になくなったのでもう時効でしょうな、JRさん。
アンクルムーニーが大阪で何度かライブをしたおかげで何人か知り合いが出来て、大阪の友人を頼って何日か居候というのが決まりだった。この頃から居候癖というのも始まったのだけれど、元々アンクルムーニーの頃にはメンバーと共同生活をしていて借りている家もまあまあ広かったので、関西から横浜にツアーにやって来るミュージシャンたちの宿泊場所ともなっていた。その上僕の場合は実家からして狭い借家住まいのくせに父親の教え子の下宿代わりとか、母親方の田舎からいとこなどが転がり込んで来たりとしょっちゅう居候がゴロゴロしていたので、そういうことは特別迷惑なことだと思っていなかったのも災いしている。とんでもない奴が来たなと思っただろうな。エイメン。
と、ようやく大阪まではやって来たのだけれど、のむら君とはなかなか出会えないのだった。つづく。
by digitaris
| 2007-09-19 23:23
| 企画・連載