2011年 01月 10日
ドワーフの街道にて |
人通りが少なく寂れているようにみえるのは、正月で休業中だからだろうか。駅前にあった食料品店のガラガラの駐車場に車を停めた関係で何気なく京都方面からの視点になってしまったのは、失敗のようである意味正解だった。江戸より前の時代であればそれがあたりまえに東海道下り方面となるわけだ。
水口石橋駅脇の踏切前にある小さな石橋を旅人が渡ると東海道は緩やかに三筋に分かれて行く。周りに背の高い大きなビルもないごく普通の田舎の小さな商店街のようにもみえるが、仮に電車で初めてこの駅に降立って石橋の上から三叉路を眺めるとしたなら、その風景を「ごく普通」と形容出来るかどうかは疑問だ。風景がなにかしらの意図を語りかけてくる、昔の聴き取れない言葉で。
町と都市の違いを考えてみる。ダムに例えれば、街は人の流れをせき止め適度に吐き出す装置。水なら堰(関)で止められるが、人は水ではない。例えば山間部の小さな宿場町のように道の両脇に宿屋や店などを置けば、人の流れはある程度せき止められそれだけでも立派な街と言っていいが、流れに棹さすようなもので直線的な流れはいかにも効率が悪そうだ。それが都市となると、京都を例に出すなら道は碁盤の目のように分かれ入り組んで、旅人それぞれの用にかなった施設へと導かれていく。道(途)が複数存在するというのも都市の条件のひとつである。
石橋の先で三筋に分かれた東海道は一キロほど進むとまた収束して一本の街道に戻る。水口の宿場町は直線的な街の形から一歩踏み出て、三本の道筋により街を平面化することで都市を試みた名残なのかもしれない。しかしそれが近代まで琵琶湖畔の大津や草津のような都市化に至らなかったのは、江戸時代にこのすぐ西に城が築かれ町の中心部が移転したせいとも言えるが、ここだけが世の流れから置き去りにされた本当の理由は今のところ他所者の知る範囲ではない。ただ、長い間この原初的な、まるで進化モデルの第一段階目であるかのような街の形がほとんど手つかずの状態で保存されていると考えれば、なんだかこの街がいっそう愛おしく思えてくるのだ。
正月で全く活気のない通りだが、実際歩いてみると三筋の道はそれぞれ別の役割を担っているようにもみえる。何気なく右手の道から歩き始めたが店の看板を掲げているところはだいぶ少ない。それでも畳屋とか表具屋とか職人的な匂いのする職種の店が所々目につく。街の多分中程から真ん中の道に移って駅方面に戻ると、前時代の風情ではあるがごく普通の商店街的商店が並ぶ通りだった。分岐点に戻って今度は左の道を行く。少なくとも築百年以上は経っていそうな屋敷や土蔵作りの建物などが目だち、看板こそないが何となく旅籠を思わせるような構えの家も多い。だからといって三本の道それぞれに完全に役割分担がなされていたとは思えないが、真ん中の道だけが他と比べて明らかに活気がありそうなのをみると、左右の道は今ではどうやら本来の役目を失いつつあるのだろうと想像がつく。
陽もかげり、歩いていても身体が冷えていくばかりの寒さで、ほんとうは道が収束するところまで行くつもりだったのをやむなくあきらめ、別の道を辿って車に戻ることにした。
左手の道の中程から曲がってわりに広い道を入っていくと突き当たりに小学校の門があった。その門のすぐ向こうに小さな可愛らしい塔屋を屋上に持った二階建ての美しい洋風建築が建っている。琵琶湖周辺の街では必ず探してしまうヴォーリズ建築であるが、なんだか知らないがどれにも惹きつけられてしまう何かがあった。何とも形容し難い、それは多分ライトの建築に惹かれるものと似た匂いなのだが、時代も様式もずれてはいるが確かにヴォーリズもアメリカ人なのだった。ヴォーリズはメンソレータムで知られる近江兄弟社を創設した人だが、キリスト教伝道師という肩書きにくわえ医療関係にも通じていたことで、民間人も好んでヴォーリズに建築を依頼したと考えるのは容易だ。この建物も土地の資産家がヴォーリズに依頼して建造し、長い間図書館として機能していたらしい。本当はレンガ壁だったという話もあるのだが、このモルタル仕上げ風な外装の方が似合っているような気もする。
小学校の門の左手の方に街道筋より一本裏にあたる道路が平行して伸びていて、道の街道側に小さな掘割りのようなものが切られていた。掘割りの向こうに何軒か家が並んでいるのだが軒は低めに取ってあり、弁柄色したガラス窓の格子があみだくじのような形に組まれ、どことなく艶っぽい雰囲気が漂っている。小学校の門前近くなのだが、今現在営業しているとは思えないにしろこれがおおらかというものだろうか。それとも深読みか。
地図を観れば分かる通り、三筋の道を抱えた宿場町はどことなくわらじの形に似ている。三筋の縦の道に細い横道が何本も絡んでいく様はまるでわらじの編み方と呼応するかのようだ。たとえば誰かに、都市というのは実はわらじの形から始まったのだよと云われても、疑いもなくそうかもしれないと思うだろう。旅人の意識の多くの部分をわらじが占めていたとして、無数に通り過ぎたその旅人たちの想念がしみつきしみつき街の形になった、と語ればちょっとした神話のようだが、また別の誰かに、もっと昔はドワーフの通う街道だったのさ、と耳元で囁かれてもおそらく疑いはしない。のっけに三叉路を眺めたときに引っかかっていた喉のつかえが、今ようやくポロッと取れた。
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by digitaris
| 2011-01-10 06:27
| 日の丸観光