2009年 08月 16日
バッタは草むらから湧いて出るのか |
うちには庭と呼べるほどの空き地はないけれど、家を取り囲む僅かな隙間に親が木を植えたり花を咲かせていた。今はまったく世話をせずに放置して雑草が侵略するままにしている。それでもシャガなどのアヤメの類や名も知らぬ多年草などが、びっしり生えたドクダミの間から時々顔を出す様が愛らしい。いままでは季節になると家の裏手だけにはびこったドクダミも、いまでは表で堂々と花を咲かせるが、その姿も意外に美しいもので僕は好きだ。
だいたい園芸用の花類がそれほど好きではない。野原に雑草がランダムにはびこっている姿が、いや野っぱらというものじたいが好きなのだ。いや本当のところはというと、住宅地では皆庭に園芸用の花をせっせと育てて雑草を敵のように排除しようとするものだから、そのせいでバッタや蜂などが来なくなったのだ、などと無闇な理屈をでっちあげては自分の無精を正当化しようとしているだけに過ぎない。
すると雑草の生え具合が見た目よく丁度いい頃合いになったのを見計らったかのように、母親が生きていたときに同郷のよしみで家族的な付き合いをしてくれるほどに親切に世話を焼いてくれた近所のおばさん(といっても僕とほとんど同年齢)が、みるに見かねて僕の寝ている間(朝方から眠りにつくのだす)に勝手に玄関周りの草むしりをしてくれるのだが、人一倍の親切心から出たものだけに文句の言えるすじあいもなくこのままでいいのだと説明する気力もなく、これだけはどう対処していいものやら半ば諦めの境地でもある。
美意識の違いというものにはおおむね埋められない溝がよこたわっているものだ。だからといってそれを排除してしまいたいというわけでもない。
今日はブライアン・イーノでも
by digitaris
| 2009-08-16 15:19
| 反復ラブ