2008年 09月 21日
すると雨の日は写真の整理などするとするか |
さすがに最近は外で呑む機会もめっきり減って飲み屋の常連になったりも出来なくなったが、カウンターに座ってちびりちびりやっているうちはいいのだが隣り合わせた顔見知りと言葉のやり取りをしなければならないはめになって一番困るのは、相手が自分の話しかしないケースだ。「今日はこういうことがあってそのときこんな言い方をされたから俺はこういう風に言ってやった」とか、さらに進むと身の上話を広げ出し「自分の親はこんな育てかたをしたけれど俺は他の兄弟と違って絶対そういう生き方をしてやるもんかと思ってこれこれこういうこともやったしこういう仕事もして来たし女との付き合いだって・・・」云々。こういうところにはまってしまうとこちらがどんなに話をはぐらかそうと別の話に持っていくきっかけを作ろうとも彼は、「だけどね」とまったく脈絡のない相づちから強引にまた自分の話に引き戻すのだ。たとえ黙り込んで彼方をみつめてみたところで放っておいてもらえるわけもない。
強引さの力関係に於いてまったくお呼びでないこちらとしては、最初から人のよいところをみせようと「うんうん」と相づちを打つ側に立ってしまったことを強烈に後悔しつつ不味くなった酒をときおりちょろちょろ嘗めながら、この終わりのないルーティーンがいつ収束していくのだろうと内心うなだれるのだ。
しかしこれが強引さに於いて同レベルの二人が隣り合わせた場合、いったいどういうことになるのだろう。考えただけでも恐ろしい。
しかしだからといってそういう彼らを邪険に出来ないのは、飲み屋での独り酒というのがそこはかとない人寂しさを倍増させるから、結局呑みに行く腹づもりの中にそういうところも含まれているからなのは間違いない。なにがなんでもまわりに誰も近づけたくないなんていうことはまずあり得ないのだ。
その上そういう自分の話ばかりしたがる人の話をじっと聞いていると、思ってもみないところから生きることの(大概は反面教師的な)ツボのようなものが転がり出して来ることもある。そういう意味では馴染みの店の常連になるよりも、ふと見つけた感じの良さそうな飲み屋のカウンターにそうっと座って、別のお客の会話が自然と耳に入って来るのをゆっくり待っていたりしたいものだ。しかし気軽にそういう状況を作るにはいくぶん懐が温かくなければそれは成り立たないのであってそれを思えば溜め息が一つ、結局ほとんど家で晩酌をして済ませてしまう毎日。
by digitaris
| 2008-09-21 19:39
| つれづれ